10/10(土)ウィークエンドフォーラム「八王子空襲の体験を聞く」開催しました

2015年10月30日 10時50分 | カテゴリー: トピックス, はつらつタイム・学習会等, 平和・人権

10月10日(土) 東浅川在住の西山糸子さんに70年前に高尾町で体験した八王子空襲のお話をお聞きしました。

1945年8月2日未明、B29による八王子空襲、そして8月5日のいのはなトンネル列車銃撃は、たくさんの死者、けが人、行方不明者がでました。当時の体験は、話を聞いているだけでも苦しく悲しくなるのものでした。以下は、西山さんの話です。

西山さんが小学5年の時、祖父母と母子ども5人を残し父は招集された。庭に防空壕を作り空襲を知らせるサイレンでいつでも逃げ込めるようにしていた。
小学校の校庭は畑になってしまった。近くの寺には都心から小学生が疎開してきていた。また、浅川地下壕には朝鮮の人が働いていた。その近くに部落があり、子どもは学校に通っていたが、学校では子ども同士仲良くしていた。

配給で配られる食料も少なくなり、山や道端に生えている、あかざ、もち草、さつまいものつるやどんぐりを粉にして食べていた。
西 山さんが13歳の時に体験した八王子空襲は、あっという間に家を焼きつくし、家に戻ってみると西山さんの家も焼け落ちていた。甲州街道は市内から逃げてく る人でごった返していて、逃げる時にはぐれてしまった祖父と妹にはその後無事に会えて燃え残った親戚の家へ家族みんなで身を寄せた。
夫の姉は八王子駅近くの多摩相互病院の看護婦だったが、消息不明となり、両親は遺体の安置所で沢山の遺体の中から娘の変わり果てた姿と対面した。
8月5日のいのはな列車銃撃の被害者は駒木野の小林病院に運び込まれたが、処置しきれずに次から次へと息を引き取っていった。手伝いに行った母親は帰ってきても黙っていた。あまりにもひどい状況だったのだと思う。
赤紙一枚で戦地へ行って戦死しても遺骨がなく、「お国のために亡くなった」と言われ家族は涙も出せなかった。
空 襲のあとのまちは、一面焼け野原で熱い路面、川も燃えて熱かった。黒焦げになった遺体が転がる町を家族の名を呼びながら大事な家族がみな死んで孤児になっ た人、このような、いかに甚大な被害が出て、たくさんの命が失われても一度戦争を始めてしまうと容易には終わらせられない。

これは遠い過去のお話でも、物語でもありません。70年前に高尾町で起こった本当のお話です。
やはり、戦争をしてはいけないと体験を聞いて全員が感じたことでした。